花馬の由来
多伎藝(たきき)神社蔵の古書によれば、延宝2年(1674)元文5年(1740)明治8年(1771)の記録に、当時は「作り花」としてあり、「花馬」の名前は出て来ない。
「作り花」と「花馬」が同じものであるのか、あるいは違うのか、はっきりわからないが、実際には「作り花」(「花馬」?)が神社祭礼の際、田儀の各地から繰り出されたようである。
これは現在のような大きなものではなく、長さ3メートル位の竹を十数本に割り、傘のように折り曲げて、それに菊や桜の折り花をつけたものであったという。
このように古く(延宝年間)から「作り花」があったところへ、宮本地区で桜井家が繁栄する頃、金屋子神社(かなやごじんじゃ)の祭り花は大型なもので、多伎藝神社の祭りにも奉納されていたようである。
後に町部の※頭屋(とうや)が毎年交代で祭礼のお世話をする事になった。
10月1日当番の家主が祭主となり、神主は白幣を祭主の家に飾り、庭には榊を立て七五三縄(しめなわ)を飾り、村内の安全と五穀豊穣を祈った。
そして、祭礼の際には、その白幣を花馬の真にして神事花として奉納したとも言われている。
当時は道も狭く、先導するものは道端の木の枝などを一つ一つ切りながら、時間をかけて神社に向かったようで、時には川の中を担いだものといわれている。
昔は宮ノ下で一休みし、神社からの迎えを待っていた。
神社は白幣が上がらぬと神事ができなかった。
したがって、神社は酒き肴を用意して出迎えにいき、白幣が上がると神事が執り行われることから、一説では神事花とも言われる所以である。
現在は頭屋の家主が、白幣を直接車で奉納している。
※頭屋:その昔、産土神多伎吉姫(うぶすなのかみたききひめ)が大国主命の命により、田儀浦に上陸の由来にちなむ、湊浜屋敷(みなとはまやしき)の25屋敷が祭礼等の主宰者となる家が決められている
花馬の形態
田儀花馬の形態は、斐川郡一円の花馬と大差はないが、基部の土台に当たるところに、大きな違いがある。
四本の桧丸太に、上下8本の杉丸太(貫き)で櫓(やぐら)上に組み、釘などは使わず、全て紐縄で固く縛る。そして、組み上げた四隅の柱の中央に、真柱を立て、それに割り竹を傘状に取り付け、菊の折り花を付け、真柱の最上部には、真と呼ばれる人形が飾られる。
地方によっては、台の部分が俵のみのものや、櫓組みもあるが簡単なもので、四方から竹棒で支えるだけのものもある。それは練り形の相違ではないだろうか。
当地の花馬は、前述の櫓状の台に、長い長い棒を縄で縛り、音頭に合わせて路面を擦るように、左右に回しながら動かして練って歩くやり方である。出来上がった花馬は、700~800キロもの重さにもなるため、しっかりしたものを作らないといけない。そのため、台組のロープ締めは幾重にも巻いて、トントンとかけやで叩いて固く固く締め上げる。真柱の上部を麦藁で巻き、それに真竹の大串を60本巻き付け傘状に垂らす。一方その上に上向きに小串を35本取り付ける。大串には折菊、小串には桜花を付けている。
次に真柱の上に付ける真であるが、これは非常に重要な意味をもつもので、昔は「白幣」又は「榊」を使用していたが、現在は人形を付けている。その人形も明治から昭和初期までは、出雲市知井宮町の人形師に作らせていたが、今では保存会の会員が、毎年会員の意見を集約して、その年人気のあった人の人形を制作している。
台組の四本の桧丸太が、四つ足の形になるので、そこから花飾り馬に擬し、この名があるとも言われている。
祭りにふさわしい賑わいには、花馬を曳く時の音頭と囃子が必要であるが、音頭は出雲一円で謡われている木遣音頭を使用している。
この音頭は昔田儀の湊から船で出入りしていた船頭が、北陸地方から伝授して帰り、この地に定着したものだと、古老からの言い伝えである。
大串に付ける花は、いかの大量の時はするめをつけたり、はやり病がある時は各家から人形を出して飾ったりした事もあったと言う。
花の練りは勇壮で、観客も拍子をもって見守る。圧巻は、お宮の階と拝殿である。拝殿前では別記のとおりの神事花としての所作である。
これは今でも伝統として受け継がれている。